夏オセロ(第一回萌やし賞 約1000字)

 残暑の厳しい日、学校の中で唯一エアコンの効いているコンピューター室に僕たちはいる。二人の他には誰もいない。
「みんなに勘違いされると困るでしょ」
 凛が笑顔でそう言うから、ドアに近い、廊下から見える位置に座ることにした。こんなことは初めてで、実際僕は都合のいい妄想を勝手に膨らましていたため、凛にそうやって先回りして宣言されてしまうと複雑な気持ちになった。いやそれより今我々が思い起こさねばならないのはナチスドイツに捕らえられた捕虜の逸話である! 敵将校とチェスで対戦した捕虜は、勝っても負けても処刑されてしまうことを察して巧妙に引き分けに持ち込んだのだ! だから我々は……というか、この場合僕は!


 凛は盤面を凝視している。前髪が邪魔をして彼女の顔を見ることができない。いつもは肩にかかっているセミロングの髪が、頬の横に降りてきている。やがて凛は円板を白を上にして細い指で持ち上げ、盤面の角にそっと置き、同時に顔を上げてこちらを見た。僕は思わず言う。
「飛び込んできたね」
「飛び込んでみました」
 相槌を打ちながら凛は黒い円板を一つずつ裏返しにして白くしていく。様子はとても楽しげで、もうそれだけで僕は本来の目的を忘れそうになってしまった。しかし急いで先程の思考を継続する。その手は明らかに失着なはずだが、かといって厳しく咎めるわけにもいかなかった。


 盤面が七割ほど円板で覆われたころ、凛は、
「なかなか強いね」
 と僕のことを褒めてくれた。悪い気持ちはしない。状況はやや難しいが彼女優勢、あやを知り尽くしている上級者ならば間違いなく勝ちにつなげられる局面だった。だからこそそういうコメントが出てきたのだろう。ただ僕の感触だと、彼女の実力では難しそうだった……つまり僕はまだ引き分けに持ち込むことができると読んでいたのだ。


 凛は円板を右手でもてあそんでいる。小さな音を立てながら表、裏としきりにひっくり返している。そして突然、
「ねえ、私このまま勝っちゃってもいい?」
 なんて言い出した。凛はまっすぐこちらを見つめている。ブラフか、それとも……。
 空調の音が気になり始めた。考えることが多すぎて混乱してきた。自分の今までの行動のどこかに誤りがあったのかもしれない。
「この感想、あとでしっかり聞かせてもらうからね」
 言いながら凛は円板を正しい場所に置く。決着は存外早くついてしまうかもしれない、僕はそう感じた。