発泡酒24本入りケースと踏み切り

 かわいさと残虐さを兼ね備えた絵を描くブラックストーン氏は、私にとっての『神』である。ウェブ上でかいま見せるイメージとは異なり、神は小柄で大変かわいらしい女の子であられる。私がオタ全開だった時に神の作品に出会ったのだが、それは五、六年前のことなので、当時神はまだ中学生だったわけだ。


 二時間ほどの残業を終えて帰宅した。
「ただいまあ」
 ふ抜けた声を発しながら私はドアを開けた。廊下の奥の居間が明るくなっていることに少し驚いたが、すぐに思い出した。ブラックストーン氏がいるのだ。前カレが出て行ったからというもの、私はずっと自分で電気をつけてきたので、部屋に人がいるということが普通にうれしい。加えてその人というのが神なのだ。同棲していたアイツが逃げ出して、広い部屋を少々持て余していた私の事情と、上京する資金に悩んでいた神の事情がうまく結びついたのだった。
 ところで、同居するにあたって神からは「ひかりと呼ぶように」と命じられている。ていうか『神』っていうのがそもそもおかしいんだけれども。
 ブラックストーン氏、本名・黒石ひかりさんは居間の中央に落ち着かなさそうに立っていた。大きな座卓の上に大きなモニターと大きなタブレットが置いてあり、つい今までそれで作業していた様子だ。どれもみな大きいものなので、真ん中にいるひかりがずいぶんと小さく見えた。髪の毛を後ろでまとめ、メガネをかけていて、私のイメージの中の漫画家センセイとぴったり重なる。私のコーデとしてはありえない、白いフェミニンなカーディガンを着ている。
「おかえりなさい、みさきさん」
 神、いや、ひかりにちょこんと頭を下げられてしまった。この子のこういうところ、狙った行動なのかどうか分からないけれど、自分にはない、正直無理的な振る舞いを見せられると、自分が女として劣等であることを感じてしまう。絵だけじゃない、やっぱりあんたは神っすよ。


 日曜日、起きるとひかりの姿はなかった。座卓にメモが置いてあり、スーパーの朝市に出かけるとのことだった。彼女のケータイに電話するとまだ買い物途中だという。五分で用意をして合流する、と告げた。
 電話を切ってから、さすがに五分は短すぎだろうと思ったが、女に二言はない。ばたばたとあわてて用意をして、部屋を飛び出した。しかし結局ひかりと一緒に買い物をすることはなかった。私は踏み切りで足止めを食らってしまったのだ。


 轟音を立てて右から電車がやってきて、私の目の前を通り過ぎていく。遮断機は常にカンカンと不平を訴えるような音を鳴らしている。右からもう一回。さっきより手前をさっきより早い特急電車が。踏み切りが閉まる直前、反対側にひかりがいたような気がする。走っている電車がもどかしい。ええい、立体交差化はまだか。
 やっと行った。そしてひかりがそこにいるのを確認した。彼女も私に気付いているようで、こちらに向かって大きく手を振る。遮断機は鳴ったまま。ひかりは何かを言っている様子だ。いや、だから聞こえないって。ケータイ使おうよ。
 ひかりは両手で何かを持ち上げ、私に見せようとしている。派手な紙箱、発泡酒のケースだ。あれは重いはずだ、と思った瞬間、ひかりはよろけ、そして同じタイミングで左から電車が来て私の視線をさえぎった。


 遮断機が上がるとすぐに、私はひかりのそばへと走っていった。ひかりは笑っていたが、やがて私の口調が厳しいことに気付くと、神妙な顔に変わった。ひかりを守らなくちゃいけない、という使命のようなものを、この時私は意識した。自分の今いるこの踏み切りで、人生というと大げさだけれど、何かが変わったような気がした。