ぬこ3

「猫はちょっと」
 紺のスーツを着た若い男があいまいに告げた。サヤカとヒナコとぼくは金融機関に来ていて、今まさに自動ドアが開いて中に入ったところだった。猫というのは、サヤカの腕の中にいるヒナコのことだろう。
 この建物に入ってすぐに気付いたのは場違い感だった。銀行だったら銀行と書いてあるだろうし、自分も口座開設の経験とかあるのでわかりそうなものだが。まず、ここにはじゅうたんが敷いてある。なんだか高そう。それから……はっきりとは分からないが色々と見慣れない。奥の方にはソファーがあって、上品そうなおばあさんが座っている。言われるがままにここまで来てしまったが、これからどこで待つべきだろうか。お手伝いの分際で、あのおばあさんの隣に座るというのはまずいのではないか。
「猫はちょっと」
 若い男はカウンタから小走りで出てきて、全く同じせりふを繰り返した。いわゆる、大事なことだから、なのだろうか。しかし、お客に対して「ちょっと」というのはどうだろう……。なんだか口を挟みにくい雰囲気になった。横目でサヤカの様子をうかがうと、無言でまっすぐ男の方を向いている。サヤカの沈黙の恐ろしさを知るぼくとしては、どうにかしてこの場をやりすごしたい。
 ぼくは猫をサヤカの腕の中から持ち上げることにした。猫の首につけた鈴がチリンと鳴る。猫はいまのところヒナコであり、おとなしかった。つけているリードと後ろ足がだらりと伸びた。
「じゃあ、外で待ってますから」
 サヤカと男の両方に向かってそう告げると、サヤカは口を閉じたまま同意と解釈されるような低い音を発した。どうやらこの行為が正解だったようだ。一方男は、びっくりしたようにこちらに向き直った。そこでぼくは気付く。男はどうやらぼくのことを客だと思っていたらしい。致命的なミス。さっきから男の一挙一動はサヤカによって観察されているというのに。きちんとしたスーツを着ていながら、前のボタンを留めていなかったり、ケータイにつけているであろうやたらと大きいキャラクターのストラップがポケットから飛び出しているところなどは、かなり早い段階で間違い探しのように発見されているはずだ。ぼくにはわからなかったが、そのストラップのキャラがどういうゲーム・アニメに登場するものであるかまでサヤカにはお見通しだったかもしれない。
 ぼくに向けられているわけではないが、サヤカの目から依然かなりの視線が光線のように出ているのを感じる。奥でおばあさんはテレビを見ている。男は力なく手を伸ばし、サヤカを建物の奥へと案内した。やがて二人はゆっくりと歩きだし、ぼくはそれを見送り、男の無事を祈りつつヒナコをつれて建物の外へと出た。