いっそバターになってしまおう

 男の一人暮らしの部屋に転がり込んできたモカは、大きなバッグを部屋の隅に置くとすぐにキッチンの探検に向かった。戸棚を開けたり、シンクに水を流したりしはじめた。予想の範囲内。掃除はしておいた。しかし彼女の様子を後ろから眺めていると、ふと上司にレポートをチェックされているような気持ちになってしまう。仕事はいい加減忘れたい。お盆休みの昼間。
 基本的にきれい好きなほう、というよりも外食ばかりしていて使っていないから、モノは少なくそしてきちんと片付いているはずだ。
「こ、これは!」
 モカが大げさに驚いて、奥のほうから箱を取り出した。そのちょっと演技っぽい不思議なところ、嫌いじゃない。「憧れのホットサンドメーカーじゃない!」
「憧れなの?」
 冷静に答える。モカの感覚にはついていけないときがある。育ってきた環境が自分とずいぶん違うからか。
 モカの本当の名前は桃香だ。何かの拍子に「桃香もか!」と自分で自分に突っ込みを入れたところ、モカがあだ名になったと言う。初めて会ってその話を聞いたとき、あまりにできすぎているような気がした。そしてまさか付き合うことになるとは思ってもいなかった。


 大きなダイニングテーブルの上にホットサンドメーカーを置いた。その場所は今までどちらかというと食事よりも仕事で使うことが多かった。プリンタとかノートパソコンとかが散らかっていて、モカが来る前にきれいにする必要があった。
「ねえ何でこんなの持っているの? 食器も何もそろってないのに」
 上半身を屈めたり、持ち上げたり。モカホットサンドメーカーを色々な角度からチェックしている。
「会社のクリスマスパーティで当たったんだよ」
「何それ、会社でそんなのあるの? いいなあ……」
 本当のことを話したところ、なぜか追加の説明をするはめになった。モカはとても聞き上手で、彼女と話しているとつい夢中になってしまう。結果自分の方だけが一方的にオタクのようにしゃべりまくっていた、ということになりがちだ。
 いや、でも。話がとんでもない方向にいってるし。クリスマスパーティーって。季節が全然違う。


 冷房を少し強めに設定する。キッチンは暑く、汗をかいてしまっていた。
 コンセントの場所を聞かれた。モカの荷物がどさっどさっと置いてある、その陰にコンセントは隠れていた。
「ここからコードを延ばして、届くかなあ」
 モカがこちらに背を向けて呟いている。彼女が着ている白いTシャツが目に入る。背中のラインを目でたどる。
「ここに置くつもり?」
 モカに尋ねた。
「いいじゃん、テーブル広いんだし」
 こっちに振り返ったモカに面と向かってそう言われると反対する理由はない。そもそもどうやって使うかなんて考えていなかった。
「明日の朝、早速作ってみようよ。……すごい、レシピ集がついてきているんだ」
 無造作に脇によけておいた箱から、モカは本を取り出した。ぴょんと椅子に腰掛け、ページをめくり始めた。それで、隣の椅子に座る。明日の朝、か。モカの横顔を何となく眺める。彼女の唇が無言無音で動いているのを発見し、にやっとした。しばらく観察していても、モカの目はその本に向けられたままだった。次から次へと鮮やかな写真が現れる。結構しっかりとしたつくりの本だった。


 心の奥で不思議な感情が生まれた。すぐにそれが何であるか分かった。
「ねえ」
 モカが本を指差して言う。
「これ食パン4枚切りまで焼けるんだって。4枚切りって売ってるのあんまり見なくない?」
「そうだね」
 上の空の返事をした。関西、関東、6枚、8枚。単語が頭の中を空回りしはじめる。得意げに説明する局面ではないだろう。もう考えるのには飽きた。
 モカが無言でこちらを見た。直後、モカの喉から、こくっという音が聞こえた。