(1; 北山)とりあえず走り出してしまえばいいんじゃないだろうか

 クラスの連中に少しつかまってしまったけれど、何とかかわして急いで部室へと向かった。今日は特別な日、LSDの日なのだ。ぐずぐずしていると置いていかれてしまう。
 階段を小走りで降りるとき、ふと目をやった高い窓の向こうに秋の青空が見えた。晴れてはいても暑くはない、そんな天気だ。遠くまで走るのには最適だから、今日はもう昼休みぐらいからうずうずしていたのだ。
 体育館の脇で靴を履きかえる。風が吹いていないことに気づく。大きな樹が影を落としている他の部の部室の前を通り過ぎる。突き当りを右に曲がった時、はるか先輩の姿が見えた。いつもの紺のTシャツを着て、陸上部の部室の前で一人、準備体操をしている。
「遅い! 何してたの」
 すれ違いざまにそう言い放った長曽我部はるか先輩は二年生で、3000mだったら僕と同じぐらいのタイムで走る。名字で呼ばれることを忌み嫌っているので、後輩の僕も下の名前で呼ぶことになっている。
「元沢君が戻ってきたら、すぐ出発だから」
 急かされつつ部室に入った。中には誰もいなかった。奥であわてて着替え始めた。


 バッグからジャージを取り出す。長い距離をゆっくりと走るLSD(Long Slow Distance)の際はランパンより何かと便利だ。それから、忘れずに最新型の軽量シリコンオーディオも出してジャージのポケットに突っ込んだ。今日の練習を楽しみにしていたのは、これを使ってみたかったからでもある。電気屋に入荷したのが昨日で、即購入して、夜遅くまでかけて手持ちのアルバムから手当たり次第にコピーしておいたのだ。
「北山君、用意できた?」
 そう言いながらはるか先輩が入り口から中を覗き込んできた。しかし、この人は僕が用意できていなかったら、とか考えないのだろうか? そもそもこんなに散らかっている部室の中なんて、女の人の正視に堪えられるものじゃないと思うし、昨日なんて入り口からすぐ見えるところにダウンロードしてきたエロ漫画が山積みになっていたぐらいだし……。脱いだ制服をたたむ、というかちょっと体裁を整える程度のことをしながら、尋ねる。
「元沢先輩はまだなんですか?」
「なんかねえ、さっき来たんだけど『後で行くから』って言ってまたどっか行っちゃった」
「はあ」
 時々そういう謎な行動がある、それが部長の元沢先輩という人だった。
「で、先行っててって」
 はるか先輩と二人ですか、という言葉が出かかったけど、なんとか押さえこんだ。大して意味なんかないのに、変に勘ぐられると困るような言葉は言わないに限る。口を動かさなかった代わりに、体を動かした。先輩から少し離れて、手を大きく回したり、足を伸ばしたり、その場でジャンプをしたりする。
「LSDだからって準備体操が軽くていいなんてことはないんだからね」
 はるか先輩がそう言うから、いくつかの動作についてはもう一度やらなければならなかった。その最中、走りながら何を先輩と話そうか、とか、いやそもそもLSDは練習なんだから話す必要はないのではないか、とか、考えが堂々巡りしていた。それからシリコンオーディオのことも気になった。一人だとか大勢だとかで走るんだったら何をしても勝手だろうけど、二人のときはどうすればいいんだろう?
 まあ、とりあえず走り出してしまえばいいんじゃないだろうか、時間はたっぷりあるんだし。最後にはそういう結論だかなんだかわからない曖昧なところで落ち着けた。そして、外周道路へと続く坂道に僕は走り出た。併走するはるか先輩のウインドブレーカーがたてる、しゃかしゃかという音が妙によく聞こえる。