ぬこ


 朝刊を五紙抱えてリビングへ向かった。ドアを開けて中に入ると、サヤカがソファーにだらけて座っているのが目に入った。着ているパジャマのボタンはいくつか外れていて、きわどいことになっている。
「おそーい」
 サヤカは顔も動かさずに言い放った。テレビに見入っている。相変わらず、自分は男だと認識されていない、多分。ただの『お手伝い』。来た時間はいつもと変わらなかったけれど、たまたま今朝彼女は早起きしたようで、寝起きの不機嫌さをストレートにぶつけてくる。
「ねえ朝ごはん、まだあ」
 適当にそれに相槌を打って、キッチンに入った。炊飯が終わっていることを確認する。インスタントの味噌汁でいいかサヤカに尋ねた。そしてお湯を沸かす。ここが勘違いされやすいところだ……即席モノはお湯の温度と分量で100%決まる。ゆめゆめ軽んずべからず。だてに一人暮らしを何年もやっていない、いや全くもって自慢するほどのことではないのだが。


 スクランブルエッグを作っている最中、背後から猫の鳴き声が聞こえた。猫はヒナコのように感じられたので、フライパンの火を止め振り返って丁寧に、
「おはようございます、ヒナコさん」
 と挨拶した。その後猫を抱きかかえようとしたところ、ひっかかれずにすんだからやっぱりヒナコだと確信した。
「まだお姉ちゃんかどうか見分けられないの?」
 サヤカはいつも馬鹿にしたように言う。
「お姉ちゃんの時は、ひげの動かし方から歩き方まで全然違うんだから」
 とはいうものの、どこまでいっても外見は普通の猫なので、自分には状態の判別は難しいのだった。


 リビングに隣接する和室にヒナコである猫を連れて行く。部屋の真ん中で降ろし、そこを中心にして弧を描くように朝刊を配置する。新聞は後ろから読む、というヒナコのためにテレビ欄から一枚めくった状態にしておく、ただし日経は例外である。新聞同士は重ならないように気をつける。猫は行儀よく座り、作業が終わるのを待っている。時々毛づくろいをしたりもする。
 今朝も配置に満足してくれたようだ。やがて、猫はその狭い額を紙面にこすりつけるようにして読み始めた。こうなればもう構う必要はない。猫は自分の足を器用に使って一ページずつめくって読み進めていく。後ろから見ているとしっぽがふらりふらりとゆれていた。キッチンに戻ることにした。


 テーブルに朝食の皿を並べる。調理中に間が開いたせいで硬めに仕上がったスクランブルエッグ、持ってくる直前に絶妙の技で調合されたインスタント味噌汁、ご飯、それからミニトマト。それは水に沈むぐらい甘いとサヤカは言っていた。
「フォークも持ってきてね」
 サヤカに頼まれて、もう一度キッチンに戻った。自分一人だと洗い物を少なくするために、全部箸で食べてしまいがちなのだが。フォークの入っている引き出しを空けている時にヒナコのことを思い出した。人間分しか準備していなかった。
 そこで、奥の棚に手を伸ばしてキャットフード缶をとる。皿も用意する。昔CMでは見たことがあったけど、まさか本当に猫のためにエサの盛り付けまでするとは。缶を開ける。小気味よい音がした。


 席に戻ったちょうどその時だった。
「ああっ、猫に戻っている!」
 サヤカの声とともに、クシャクシャという音が和室からした。見ると猫がものすごい勢いで朝刊と戯れている。もう猫はヒナコではないようだ。新聞の一枚がふわりと持ち上がった。野球選手らしい写真が見えたが、次の瞬間それは歪みすぐに紙球と化した。
「だめなんだから、お姉ちゃん、また後でそれ読むんだよ!」
 混乱したサヤカは意味不明に言う。猫は和室の隅へとそれを転がした、そして追いかけた。サヤカはこちらを見る。何とかしろと言わんばかりに。
 仕方なく、被害を最小限に食い止めるために和室に向かった。手早く残っている新聞を片付ける。テーブルを振り返るとサヤカと目が合ったが、彼女はすぐにそらしてテレビのほうを向いた。
 食事のときはテレビを消す! という言葉を飲み込んで、部屋の隅にいるヒナコではない猫の捕獲行動に移った。