(5; 彩)大人になりたい


 「走ろう会」の面々は自営業だとか自由業だとかをやっている。だから平日の昼間からこうやって宴会ができるのだ……と考えていると、高校生の自分がちょっと悲しくなってきた。今いる川原は暑くもなく寒くもない。皆が座っているビニールシートは青い。あと、秋の空は高い。
「彩、どうしたの」
 隣に座っているソウさんから声をかけられた。
「ちゃんと食べてる? こんなおいしいものなかなか食べられないよ」
 目の前にはカセットコンロと鍋。鍋の中では主に芋が煮られている。
 彩は家族と住んでるんだから、という声がした。ソウとは違うんだよ。
「そっかあ。あ、今日はご馳走様です。俺、ここんとこほんとにろくなもの食べてないんす」
 ソウさんは、そう言ってまた鍋に箸を伸ばした。その動作は大きくって、近くに置いてある紙コップが倒れてしまいそうで私は怖くなった。ソウさんの飲みかけのビールだ。そんなものがジャージにかかってしまったら酒臭くなってたまったもんじゃない。


 私がこの会に顔を出すようになったのは、ここから遠い、海に近い街で行われたマラソン大会がきっかけだ。夏真っ盛りに行われるその大会に、私は祖母の家から行きやすいというささいな理由で参加したのだけれども、実はそれは、上り下りの激しさと過酷な気候でマニアに大人気、という代物だったのだ。ばあちゃんも、知ってるなら一言いってくれればよかったのに。
 おかげで、私は人生初めての途中棄権をしてしまい、そしてスタートに戻るバスを待っている間に「走ろう会」のソウさんと知り合いになったのだ。


 お椀を口元に持っていく途中、ふと視線を遠くに向けた。土手の上の道を、はるかと北山が走っていく。ソウさんも気づいたようだ。
「あれ、彩んとこの陸上部の人だろ」
 ソウさんが言う。
「あの子、かわいいなあ。あ、でも彩もかわいいよ」
 そういう、ややセクハラ気味なことを言われても嫌な気持ちにはならない。ソウさんが自分よりもずっと年上だからだろう。恋愛感情が全く入っていない、挨拶みたいな感じだからか。ソウさんは得な性格の人だなあ、とも思う。
 続けて、また皆が私の話をし始めた。
 学校サボってするっていったら、タバコだとかパチンコだったんだけどなあ、俺ん時は。でも彩はサボって走ってるんだろ。
「だって走ってたほうが楽しいし」
 と私は答えてみる、さっきと同じように。
 勉強は? と尋ねる人がいて、勉強はいいんだよ、と否定する人がまた現れる。もう皆酔っているのだ。でも何だって、彩はこんなところにいるんだよ……絡むように問われる。
 答えはこうだ。
「大人の集まりにあこがれていたので」
 いやそんなこと、実は一度たりとも言ったことはないのだが、いつも適当にごまかしているのだが。でもそれはさておき、私はもう今すぐにでも大人になってしまいたい。生活のために働き、それ以外に趣味を持ち、楽しく暮らしていきたい。それがどうして今の自分に許されないんだろう、とむかついてくることもある。
 ウルトラマラソンの参加資格は満十八歳以上で、近視矯正手術だって二十歳ぐらいからがいいという。まだ一年以上待っていなければいけない。


 そんな考えをはるかに話したことがある。
「私はまだ大人はいいや」
 ひとしきり聞いてくれた後、はるかは言った。大人=アダルトという感じが強いのだそうだ。
 全く考えたことがない発想だったので、瞬間、私はびっくりしてしまった。そして同時にそういう自然な発想をもつはるかがうらやましくてたまらなくなった。自分はいつも考えすぎていて、それでかわいげがなくなっている……猛烈にそんな気持ちになった。

2


「この前パスポートの更新があったので会社に持ってきたら、なんだか中身をチェックされたみたいでさ。その後部長に呼び出されて『ずいぶん頻繁に海外に行っているなあ』と言われたんだよ」
 会社の屋上でタバコを吸いながら、高梨はそう語る。同期入社で同じ事業部に配属され、もう十年近くたつ。香港での「仕事」を紹介してくれたのは彼だった。
「なにも会社の金じゃなくて、自分の金でやればいいだろう、パスポートの更新ぐらい」
「いいなあ金持ちは」
「金持ちじゃないって」
 高いフェンスの向こうの棟を二人で眺めていた。夜12時を回っているのに、どの窓も電気がついていて明るい。
「部長の前では『プライベートです』って言い切ったけど、でも考えると、嫁には『出張』って説明してるしさ」
 なるほど。高梨の弱点は嫁だったか。それならはじめから嘘などつかずに嫁を買収するか、そうやっていつも愚痴を言うくらいだったらいっそのこと離婚すればいいだろ……とも思ったのだが、そういえば高梨は社内結婚をしていたのだった。
「みんな過労死寸前までよく働くよなあ……残業代もでないのになあ」
 突然高梨は関係のないことを言い出した。目はまだ隣の棟を見つめている。高梨の嫁になる前の女の顔を思い出そうとした。総務にいたはずだが。
「このフェンスだって最近自殺防止のために一段と高くなっただろう? 俺は死ぬのはやだなあ」
 高梨はそんなこともつぶやく。確かに死ぬのはいやだ。加えて身近な誰かが死んだという知らせを聞くのも嫌だ。


 翌朝一番、やっぱり今回は参加できない、と高梨は言いにきた。けれどもSIM解除のソフトを手に持っており、分け前の請求だけはしっかりとしたのだった。

ミルカさん、来た。(結城浩の最新刊『数学ガール・ミルカさんとテトラちゃん』)

[結] 2007年3月 - 結城浩の日記


 大体読んでいますが、大幅加筆と改訂があるそうなので気になります。買うと思います。
 ところで作者の結城さんが「萌え」を目指すって書いているのですが……。
 そうか、読んだときのあの感情は「萌え」だったのか……と今自分にびっくりしています。いや、「萌え」ってよく分かっていないものですから。


 数学の本なのですから、
「べ、別に萌えさせるつもりじゃないんだから!」
 というのはどうでしょうか。

1


 スーツケースを置くため、部屋の奥に進んだ。そこは倉庫と呼ぶには雑然としていて、棚の上の物などいつ落ちてきてもおかしくない状態だった。無理やり足元にスペースを作っていると、隣に無造作に積んである新しい箱に目が行った。
 一番上のを取り上げる。側面から開けて中身を引き出し、分厚いマニュアルを持ち上げると、そこには飽きるほど見たケータイがあった。新品のそれを持ち上げ、色々な角度から眺めてみる。無意識のうちにボディ側面の塗装の切り替わりをチェックしていた。デザイナたちがそこに妙にこだわりをもったせいで、筐体形状が二転三転して、そのたびに内部アンテナの設計がやり直しになったのだった。
 だが、それは過ぎたこと、つまりどうでもいいことだ。
「ヤス、何を見てるんだ」
 後ろから右田の声がした。彼に開発時の苦労話などしても仕方がないので、違う話題を振る。
「それにしてもずいぶん集めたな。このケータイ、日本でもまだ品薄なんだぞ」
 右田を見上げる。彼は大男で、毎週やっているというテニスのせいで顔はいい色に焼けている。白い歯を出してニヤリとしている。よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに。
「おかげさまで好評でね。こういうのは日本以外のメーカーはまだ作ってなくってね」
 答えにはなっていないが、どうやら彼のビジネスはうまく回っているようだ。同い年の彼は大きな声で喋りよく笑いよく怒る。自分なんかとは対照的な性格だし、今勤めている会社なんかにも絶対にいないタイプの人間だった。独立して会社を興すなんていうのは、こういう人間じゃないとできないんだろう、と思う。
 突然、横のドアが開いた。エレンだった。右田に向かって広東語で叫ぶ。いや実際、それは叫んでなどいない(彼女自身がかつてそう説明していた)のだが、あまりの早口のためいつもそう感じてしまうのだ。右田が広東語で返す。やりとりを聞いていると、香港にいるんだったと改めて実感させられる。


 ケータイの中から取り出した基板に半田付けして、むりやり線を引き出してアナライザにつないだ。ソフトを走らせる。
「どれぐらいかかる?」
 右田が問う。
「急かしているわけじゃないんだ。でも、結構な数のお客が待っているんだよ」
 その分、多く金を払うからさ……暗にそう言っているようだ。けれど今回ばかりは自信がなかった。やってみないとわからない部分が大きい。海外でのSIM解除の蔓延は、会社としても見過ごせなくなったようで、法的手段に訴える予定もあると聞く。その辺の関係で今回は一人で香港に来たのだった。
 前一緒だった高梨は、
「いつでも電話してくれればいいからさ」
 と言ってはいたけれども。

(4; 元沢)一日がもっと長ければいいのに

 一日がもっと長ければいいのに、と思う。例えば48時間、いや30時間でいい。そうすると6時間余計に使えることになるから、今の睡眠時間をそのまま陸上の練習に当てられる。それだけではなくて、予習や復習をしたりするのも悪くない。
 何かどうも最近何事もうまく回っていない。成績は下がる一方だし、走りのほうも少し不調だ。一年のくせに体力十分な北山、インターハイも狙える長曽我部、ウルトラマラソン志望のアヤ。こういった長距離の面々を軽々と引き離す、圧倒した走力を部長の自分は持っていた、持っているはずだ。


 走り始めてから数分なのに、体が少し重い。疲れからか左足と右足の長さが同じではないような気がする。胸のあたりも苦しい。でも急ぐ。先に出発した北山と長曽我部に追いつかなければならない。
 ズボンのポケットでケータイが震えだした。多分遥からだろう。後で電話する、なんてさっきは言っていたけれど、これじゃ全然「後」なんかじゃない。「直後」だ。遥の部屋を出るときには、
「これから練習だから」
 と告げてきたが、言葉の意味はうまく伝わらなかったようだ。


 初めて授業後・練習前に遥の部屋に寄った際にはずいぶん喜んでくれて、それがうれしくて何回か同じことを繰り返した。ところが、近頃遥はそれを当たり前のように要求してくる。
「何がいけないの? 学校は終わっているんでしょ」
 と遥は言う。高校を中退した途端に、遥は勝手なことを言うようになった。卑怯だ。こっちがどんな考えでいるか分かっているくせに、自分の感情だけバシバシ通してくる。
 一人暮らしをしている女の部屋に行くのがいけないのか、そもそも女と付き合うのがいけないのか。部活に遅刻するのも問題だろう。全部ひっくるめて、高校生らしくない、と簡単に断罪できるだろう。でも拒まない自分が悪い、というか、傍から見ると(ほとんど知られてはいないと思うが)むしろそういうことを好き好んでしているように見えるはずだ。
 結局もし6時間あったらそれだけ遥の部屋にいる時間が長くなってしまいそうだった。負のスパイラル的な現状は、少々余計な時間を得たところで変わらないのかもしれない。


 しばらく走り続けていつもの感覚を取り戻しつつあった。踏み出した足が地面をとらえている。すこしストライドを大きくすると、心臓がそれに即座に反応する、まるで変速機のように。
 そんな時、別の空想がするりと頭の中に入ってきた。SFとかで人よりも多く時間を割り当てられた主人公はどうなったのだろうか。実際の年齢よりも早く老化が進んだりしたんだったか……ようやく自分が馬鹿なことを考えているなあ、と気づいた、そしてふと長曽我部の顔が浮かんだ。
 想像の中で彼女は冷たい目をしてこちらを見ている。実際そんな目で見られたことは一度もないのだが、なぜか自分はそれを恐れている。長曽我部はるかを変に意識して、遥と付き合っている……二人が同じ名前なのは偶然じゃないような気がする。

あらすじなんてそんなに気にしなくていいと思う

【小説の書き方を教えてください】 [1] 「喫茶店でコーヒーを頼… - 人力検索はてな

上の質問が気になり、久しぶりに書きたい欲が出てきました。アウトプットが以下です。これがメタってやつですか。
一文ずつ解説するのは無理なので、回答はしないことにしました。

「あらすじなんてそんなに気にしなくていいと思う」
 向かいに座っているミキが、画面から目を離さずにつぶやいた。ファミレスの安っぽいテーブルの上、二人の間には二台のノートパソコンがディスプレイを背中合わせにして置かれている。僕は自分のパソコンに向かうのをやめ、背筋を伸ばしてそのついたて越しにミキの様子をうかがった。彼女の目が見える。けれどもそれはディスプレイ上の文字をまだ追いかけつづけているようで、こちらを向いてはいない。僕はミキの表情を知りたかった。
「タカシはタカシの好きなように書けばいいの」
 ディスプレイに目を落としたまま、ミキは続ける。
「わざわざ人力検索に回答するってことは、自分の文章を読んでくれってアピールしているのと同じでしょ。自分が気に入らないものを、他人が好いてくれると思う?」
「だからといって、質問を無視したものを書き込むわけにはいかない」
 僕はそう答えた。さっきと同じような返事だ。http://q.hatena.ne.jp/1172426828/を見つけてからというもの、僕とミキはこうして堂々巡りの会話を続けている。主にウェブのチャット、時々声に出して。実際に会っているというのに、僕たちはテーブルの上に置かれたデジタル機器を用いてコミュニケーションをとっている。


 こんなまわりくどい方法をとることについて、ミキは、会話だと周りに聞かれて困ることもあるでしょ、と言う。確かにそう感じるときもある。時々彼女はチャットにおいて別人のようにふるまうことがあるのだ。詳しくかつ差し支えなく換言するならば大胆奔放というか。声と違って聞かれることはないけれども、画面を覗き込まれないように周囲に気をつける点は類似していた。チャットは会話よりもみだらにエスカレートする傾向があるので危険である。涼しい顔をしながらミキはきわどい文を打ち、僕を挑発する。女はいくら興奮しても大丈夫だろうが、男は変化が出やすいので困る。ミキは僕のそんな様子を見て楽しんでいるに違いない。


「コーヒーと間違えて紅茶を持ってくる、なんて現実じゃありえないって」
 回答のために僕は律儀にそういうあらすじのストーリをひねり出そうとしていたのだ。でも考えれば考えるほどその設定が作り物臭く感じられ、自然な文章にはならなそうだった。一方、ミキの考えは違ったようだ。
 彼女は急に立ち上がってドリンクバーのほうに向かい、マグカップを手にして戻ってきた。見慣れたブランドの紅茶のティーパックが浸してある。そして初めて僕のほうを見た。目を丸くして得意げだった。加えてミキの鼻の穴はすこしふくらんでいた。指摘するとむくれるが、それはまんざらでもない気分の証拠だ。
 そこで僕はようやく悟った。この状況下で彼女に『コーヒーを注文していた』ことにしてしまえばいい。つまり架空の話をこしらえるのではなく、現在の僕とミキのことを描写すればいいのだ。


「ねえ、頼んだのはコーヒーなんだけど」
 わざと声を変えて気色ばんだところ、
「ごめん、すぐに替えるから」
 と、ミキはあっさり答えた。ちょっと予想外だった。
「『申し訳ありません』じゃないの?」
 僕がうっかり問うと、ミキは、
「別に私、店員じゃないし」
 と言う。確かに。
「タカシ、何か想像したんじゃないの?」
 ミキが問いかける。上品かつ狡猾な笑みを浮かべて。そして畳み掛けてくる。
「『申し訳ありませんでした』って言わせたかったんでしょ? で、その後、何か無理難題を言おうと思ったのかな?」
「いや……」
「なるほど、そういうのが好みなんだ」
 ミキが勝手にまとめモードに入っているのを見ていて、いやそれは僕ではなくあなたの想像だろ、と僕は突っ込みたかったのだけど、あまりにも楽しそうな彼女の様子につられてにやけそうになってしまう。


 けれども、突然ミキは告げる。
「コーヒーに替えるからこの紅茶、さっさと飲んじゃって」
 そうきたか。確かにドリンクのおかわりは自由だ、しかし同じカップを使い続けるのがルールだ。そしてルールには従わねばならない。
 ティーパックもまだ取っていない、湯気が依然残る紅茶を僕は無言で見つめた。